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『散るぞ悲しき』を読んで|硫黄島の戦い総指揮官・栗林忠道中将

みなさんこんにちは。

最近「ハクソーリッジ」に感化されて、クリントイーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」を見直しました。

 

▼ハクソーリッジの感想・レビューはこちら

 

その中に俳優の渡辺謙さんが演じている「栗林忠道」という人物がいるんですが、ちょっと気になって彼について調べてみたところ、めちゃくちゃ聖人かつ超絶有能な軍人だったことが判明。

 

判明、というか映画が公開された時にも少し調べてたので、ある程度は知ってたんですけどね。

改めて調べなおしました。

 

そして調べていくうちにAmazonで良さげな書籍を発見。

即ポチる。

 

▼それがこちら、梯久美子(かけはし くみこ)さんの著書「散るぞ悲しき」です。

 

内容には栗林中将が大本営(日本軍の統帥部)や家族に宛てた電報、手紙が数多く引用されていたり(もちろん原文まま)、著者が実際に硫黄島へ慰霊ツアーに参加した様子が書かれていたり、栗林中将の実の娘さんへのインタビューが書かれていたりで、安価なわりにめちゃくちゃ良書で読み応えありました。

 

ホント情報量が半端ないんですよ。

そしてお堅いテーマなのに読みやすい。

 

ということで、ちょっとばかし本の内容を紹介します。

引用多めになると思います。

 

硫黄島の戦いについて

「硫黄島の戦いとは」と、書こうかと思ったんですが、僕がいまさらここで説明しても…って感じなので、概要をWikipediaから抜粋します。

 

硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい、いおうじまのたたかい、Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 - 1945年3月26日)は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に東京都硫黄島村に属する小笠原諸島の硫黄島において、日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。

 

硫黄島はアメリカによる日本本土空爆の拠点に最も適した地だったため、日本側はなんとしてもこの島を死守しなければ、というところでした。

 

1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。

上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍大将を最高指揮官とする大日本帝国陸軍はバンザイ突撃を禁じ、激しい抵抗を経て、アメリカ軍は同島をほぼ制圧、3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林忠道大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。

日本軍に増援や救援の具体的な計画は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となった。一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けた。大東亜戦争(太平洋戦争)後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、また、硫黄島上陸後わずか3日間にて対ドイツ戦(西部戦線)における「史上最大の上陸作戦」ことノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)における戦死傷者数を上回るなど、フィリピンの戦い (1944-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦屈指の最激戦地の一つとして知られる。

引用:「硫黄島の戦い」ウィキペディア

 

要するに、

日本の硫黄島にアメリカが攻めてくる、

アメリカ側は航空支援&戦艦からの砲撃支援MAX、

日本は支援一切なし、

というかそもそも国力に差ありすぎ、

ゆえに日本勝ち目なし、

 

という絶望的な戦いです。

 

兵力・資力ともに圧倒的不利だった日本軍の陣営は、当初「5日で陥落する」と言われていましたが、結果としてなんと36日間敢闘し続けました。

 

その要因として挙げられるのが硫黄島総指揮官、栗林忠道中将の存在です。

 

栗林忠道中将について

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出典:【特集】 祖父、栗林忠道陸軍大将 関連 画像資料 | 新藤義孝公式ウェブサイト

 1944年(昭和19年)5月27日、小笠原方面の防衛担当であり父島要塞守備隊を基幹とする第109師団長となり、6月8日、硫黄島に着任。同年7月1日には大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任、海軍部隊も指揮下におき「小笠原方面陸海軍最高指揮官」となる。

 兵団司令部を設備の整った従来の父島から、アメリカ軍上陸後には最前線になると考えられた硫黄島に移し、同島守備の指揮をとる。

 敵上陸軍の撃退は不可能と考えていた栗林は、堅牢な地下陣地を構築しての長期間の持久戦・遊撃戦(ゲリラ)を計画・着手する。水際陣地構築および同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍の強硬な反対を最後まで抑え、またアメリカ軍爆撃機の空襲にも耐え、上陸直前までに全長18kmにわたる坑道および地下陣地を建設した。

 その一方で隷下将兵に対しては陣地撤退・万歳突撃・自決を強く戒め、全将兵に配布した『敢闘ノ誓』や『膽兵ノ戦闘心得』に代表されるように、あくまで陣地防御やゲリラ戦をもっての長期抵抗を徹底させた。

引用:「栗林忠道」ウィキペディア

 

▼訳注

軍中央部「硫黄島は危ないから、父島って島で指揮とればいいよ」

 

栗林中将「実際に戦地を見ずに作戦なんて立てられないし、総指揮官が安全な島でふんぞり返ってたら兵士たちの士気も下がる。硫黄島で指揮とります」

 

栗林中将「あと従来の水際作戦(海岸で迎え撃って上陸自体を阻止すること)は今回効かないだろうから、島全体に地下陣地と坑道掘ってそこから迎撃します」

 

敢闘の誓

「敢闘の誓」とは栗林中将が硫黄島で掲げたスローガンです。

「散るぞ悲しき」には以下のように紹介されています。

 

一 我等は全力を振って守り抜かん。

二 我等は爆薬を抱いて敵の戦車にぶつかり之を粉砕せん。

三 我等は挺身敵中に斬込み敵を皆殺しせん。

四 我等は一発必中の射撃に依って敵を撃ち仆さん。

五 我等は敵十人を倒さざれば死すとも死せず。

六 我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩まさん。

 

烈々たる言葉が並ぶこの6項目は、栗林が作成し全軍に配布した「敢闘の誓」である。戦いにのぞむ心得を述べた、いわばスローガンといえる。

(中略)

米軍の上陸までの8ヶ月間、兵士たちが繰り返し読み、心に刻んだ文章。その中で栗林は、爆弾を抱いて戦車にぶつかれと言い、敵陣に斬込んで皆殺しにせよと言い、射撃の腕を磨いて敵を打ち倒せと言い、10人殺さなければ死んではならぬと言っている。そして、たとえ味方が全滅しても一人で戦い抜けと言っているのである。

(中略)

彼が作ったスローガンは、現代の私たちからはあまりにも凄絶なものに映る。しかしここには、栗林がみずからの役割をどうとらえ、どんな戦いをしようとしていたのかが如実にあらわれている。

彼は、硫黄島が、勇敢に戦って潔く散るなどという贅沢の許されない戦場だということを肝に銘じていた。

 

「敢闘の誓」を一読してまずわかるのは、「勝つ」ことを目的としていないことである。なるべく長い間「敗けない」こと。そのために、全員が自分の生命を、最後の一滴まで使い切ること。それが硫黄島の戦いのすべてだった。

引用:「散るぞ悲しき」78,79ページ

 

冷静に現実を直視する目を持っていた栗林中将は、そもそもこの太平洋戦争自体、日本にまったく勝ち目がないことを悟っていました。

そのため栗林中将は、「勝つこと」ではなく「敗けない」ことを目的とし、できる限り長く戦い、そして米軍になるべく多くの被害を出すよう作戦を立てました。

 

「硫黄島の星条旗」の著者、ジェイムズ・ブラッドリーは「栗林が米国内の世論の動向まで考慮して作戦計画を練った」という持論を展開しました。

※「硫黄島の星条旗」=クリントイーストウッド監督の「父親たちの星条旗」の原作。

 

「アメリカ人は何よりも人的な被害を重く見る。だから、死傷者の数が多ければ、たとえ戦況が有利でも、その作戦は失敗ではないかという世論がわきあがる。アメリカで暮らし、その国民性についてよく知っていた栗林は、そこまで計算して敵の死傷者をじわじわ増やしていく戦い方を選んだ。アメリカの世論が、日本との戦争を早く終わらせようという方向に向こうことを期待したのだろう」

引用:「散るぞ悲しき」87,89ページ

 

あくまでジェイムズ・ブラッドリーの持論ですが、誰よりも先見の明があった栗林中将なら大いに考えそうなことです。

 

水際作戦の廃止

栗林中将が行なった大きな決断のひとつとして、「水際作戦の廃止」が挙げられます。

 

1日でも長く島を維持するために栗林が立案した作戦の内容は、以下の2点に集約される。

一 水際の作戦を捨て、主陣地を海岸から離れた後方に下げること。

二 その陣地を地下に作り、全将兵を地下に潜って戦わせたこと。

 

しかしこれは、日本軍の伝統的な作戦を否定するものだった。そのため、実行には断固たる決意と実行力を必要とした。

 

栗林が「効果なし」として採用しなかった”水際作戦”とは、上陸してくる敵を水際で撃破するというものである。これは帝国陸軍70年の、まさに伝統的戦法だった。

船艇に乗って近づいてきた敵は、水上から陸上へと移る地点において、一時的に攻撃力が弱まる。このチャンスを狙って集中的に攻撃するのが水際作戦である。

(中略)

しかしこの水際作戦は、タラワ、マキン、そしてサイパンといった太平洋の島嶼作戦においてはことごとく失敗していた。

なぜなら高いレベルの航空戦力を有する米軍は、上陸前に徹底的な爆撃を行い、陣地を破壊してしまうのである。水際の陣地は遮蔽物がないため、発見されやすいという欠点があった。

もう一つ、米軍は上陸作戦じゅう、艦砲射撃や空爆によって徹底的な支援を行う。そのため、米軍の総体的な攻撃力は、水際においてもそれほど弱まることはない。これに対し、硫黄島の日本軍は、海と空からの支援をほとんど期待できなかった。

(中略)

このことを見抜き、ごく早い時期に水際作戦を捨て去る決断をしたのが栗林だった。

水際の陣地に人員と資材を注ぎ込み、武器も集中させたとすれば、そこで敵に甚大な被害を与えられなかった場合、日本軍はすぐに総崩れになってしまう。

しかし水際で華々しく戦い、負けてそれで終わりというわけには絶対にいかない。自分たちの任務は、この島に米軍を1日でも長く引き留め、最大の損害を与えることなのだから。

そう考えた栗林は、軍の上陸をいったん許し、地下に作った陣地にモグラのように潜んで徹底抗戦に持ち込むことを決めたのである。

引用:「散るぞ悲しき」91,92,93ページ

 

この水際作戦廃止は海軍に激しく反対されましたが(当時、陸軍と海軍は不和だったそうです)、栗林中将の決意は堅く揺るぎませんでした。

 

しかし結局、一部譲歩という形で水際のトーチカ(小規模な防御陣地)構築を呑むことになってしまい、のちの玉砕直前、栗林中将は大本営に宛てた電報の中でこのこと(水際のトーチカに戦力を割いたこと)を悔やんでいます。

 

(上略)

栗林は、大本営の方針に対する批判を行っているのだ。

批判の要点はいくつかあるが、まず一つ目は、後退配備での出血持久という方針に徹底せず、水際陣地にも未練を残したことに対してである。

1944(昭和19)年8月の段階で、大本営は後退配備に方針転換した。しかしそれは、後方の主陣地に100パーセントの力を注げというのではなく、水際陣地も構築せよというものだった。特に海軍側が、水際陣地を作ることに頑強にこだわった。

サイパンの戦訓から、敵を水際で撃滅することは無理だとわかっていながら、軍中央部は大胆な方針転換ができなかった。水際陣地にも未練を残したために、中途半端な防備態勢になってしまったのである。

このことを栗林は、「敵の絶対制海、制空権下に於ける上陸阻止は不可能なるを以って敵の上陸には深く介意せず専ら地上防御に重きを置き配備するを要す」「主陣地の拠点的施設は尚徹底的ならしむるを要す 其の然るを得ざりしは前項水際陣地に多大の資力、兵力、日子を徒費したるが為なり」とし、どっちつかずの方針のために肝心の主陣地が不徹底なものになったのは大きな反省点だとしている。

引用:「散るぞ悲しき」243,244ページ

 

栗林中将による戦訓電報

栗林は、移り変わる戦闘の状況を戦訓電報で克明に報告している。硫黄島の後、米軍は台湾や沖縄に上陸してくると予想されていた。その際の防備に少しでも役立つようにと、正確な数字の把握、敵の戦術・戦法の観察と分析につとめたのである。

当時の栗林の報告を、戦後に発表された米軍の資料と照らし合わせると、彼が正確に米軍の損害状況を把握していたことがわかる。たとえば3月2日現在の米軍の損害を、栗林は死傷者約12000、戦車約200、航空機約60と推定しているが、これは実際の数字よりも1割程度多いだけである。

太平洋戦争全体を通して、日本軍の指揮官は、戦況を自分の都合の良いように解釈しがちだった。それに対し、栗林はひたすら冷静に事実を見据えていたといえる。

引用:「散るぞ悲しき」242ページ 

 

ある電報では「生地獄」と表現したほど過酷で壮絶だった硫黄島でも、冷静かつ正確に敵の損害状況を把握していました。

 

無理矢理まとめ

このあたりで区切らせてもらいますが、他にも

  • 栗林中将が妻や子供に宛てた、数多くの手紙の内容
  • 作業中に巡回する上官がきても敬礼禁止(作業優先)
  • 一般兵と同じ食事を摂り、自分の身を以て栄養状態を管理
  • 合理主義で冷徹に見えるが人情に厚い人だった

 

などなど、読めば読むほど「この人って聖者なのでは?」と思えてくるエピソードが満載で、自己啓発本などとは違う意味で感銘を受けました。

絶対に勝てない、絶対に死ぬ(しかも壮絶な死に方で)と分かってる戦いで、これだけ現実を見据えて合理的に動ける人がいたことに驚きです。

 

一方で大本営の人を人とも思わない、あまりにも粗雑なやり方に憤慨しました。

以下、「散るぞ悲しき」から抜粋です。

 

硫黄島は、軍中央部の度重なる戦略方針の変更に翻弄され、最終的に孤立無援の状態で敵を迎え撃たねばならなかった戦場である。

当初、大本営は硫黄島の価値を重視し、それゆえに2万の兵力を投入したはずだった。それが、まさに米軍上陸近しという時期になって、一転「価値なし」と切り捨てられたのである。その結果、硫黄島の日本軍は航空・海上戦力の支援をほとんど得られぬまま戦わざるをえなかった。

防衛庁防衛研修所戦史室による公刊戦史「大本営陸軍部10 昭和20年8月まで」は、硫黄島の陥落を大本営がどう受け止めたかについて、以下にように記述している。

 

「軍中央部は、硫黄島の喪失についてはある程度予期していたことでもあり、守備部隊の敢闘をたたえ栗林中将の統帥に感嘆するものの、格別の反応を示していない」

 

「喪失についてはある程度予期していた」から「格別の反応を示」さなかったという。2万の生命を、戦争指導者たちは何と簡単に見限っていたことか

引用:「散るぞ悲しき」272,273ページ 

 

ただただ酷すぎる。続けてこう書かれてます。

 

実質を伴わぬ弥縫策を繰り返し、行き詰まってにっちもさっちもいかなくなったら「見込みなし」として放棄する大本営。その結果、見捨てられた戦場では、効果が少ないと知りながらバンザイ突撃で兵士たちが死んでいく。将軍は腹を切る。アッツでもタラワでも、サイパンでもグアムでもそうだった。その死を玉砕(=玉と砕ける)という美しい名で呼び、見通しの誤りと作戦の無謀を「美学」で覆い隠す欺瞞を、栗林は許せなかったのではないか。

合理主義者であり、また誰よりも兵士たちを愛した栗林は、生きて帰れぬ戦場ならば、せめて彼らに”甲斐ある死”を与えたかったに違いない。だから、バンザイ突撃はさせないという方針を最後まで貫いたのであろう。

硫黄島という極限の戦場で栗林がとった行動、そして死に方の選択は、日本の軍部が標榜していた美学の空疎さを期せずしてあぶり出したといえる。

引用:「散るぞ悲しき」273,274ページ

 

おっしゃる通りです。

僕からはなにも言うことありません。

 

ということで、「散るぞ悲しき」から紹介させていただきました(書きすぎたか)。

栗林忠道中将の勇敢さ、聡明さ、そして硫黄島の戦いの悲惨さは相当なものだったことが窺えますね。

 

現代では考えられないような内容が書かれてますが、すべて実際にあったことです。

改めて現代の日本に生まれてきたこと、それ自体がどれだけ幸運なことなのかを教えてくれた一冊でした。

 

しかし大本営には呆れました。

 

「玉砕という美しい名で呼び、見通しの誤りと作戦の無謀を「美学」で覆い隠す欺瞞」

 

まさにこれですね。

この文が当時の軍中央部をそのまま表してると思います。

 

それでは今回はこのあたりで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。